「妙見活法」は宇宙(自然)の法則に整合した究極の自然療法です。正伝妙見活法協会では一千年の歴史を有する唯一正統なる「妙見活法」を第24代継承者である千葉吉胤妙星 司家が責任を持って本物の整体術を直接相伝いたします。正伝妙見活法協会には本物ゆえの長い歴史と正しい伝統があります。
公開日:2018年7月15日

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☆川上哲寛妙真先生 大阪市天満 ☆

第25回 妙見学理講座レポート 「北辰法道之活」

【はじめに】

千葉司家

この度は、「北辰法道之活」の学理講座のご開講、誠にありがとうございます。

「妙見オ乗リノ関也、玄関也」である法道之活は、妙見活法の入門時に相伝される術です。

今回の「北辰法道之活」で、「法道之活」は3回目を迎えました。

これは、私たちは、三度、妙見門の入り口の前に立つ事を許されたことを意味します。

1年目の「法道之活」では、妙見門の入り口が「開くのか、開かないのか」として、

妙見活法の基礎である「止まるのか、動くのか」を体現するための術が公開されました。

また、「法」とは秩序であり、法で以て混乱から秩序への導きを学びました。

2年目の「妙見法道之活」では、妙見門が開き「入れるのか、入れないのか」として、

内部浸透の術が公開されました。

それには、「力まず・挑まず・逆らわず」が、大切な作法であることを学びました。

そして、今回の「北辰法道之活」では、小さな穴に大きなものが通るという、

より高次元な内部浸透の術が公開されました。

それを体現するには、私たちが現実に生きている場そのものが3次元の立体世界であることを認識し、

思考・作法ともに「立体化出来るのか否か」にかかっています。

今回、思考・作法の「立体化」を体現するための要件を考察するにあたり、

東洋医学とオーバーラップする面があり、多くのインスピレーションを受けました。

以下に、それを踏まえた考察を展開させていただきます。

【思考・作法の「立体化」の理順】

思考・作法の「立体化」は、決して一足飛びにはいかず、

最低でも以下の理順に則る必要があります。

まず、私たちが歩ませていただいている道は立体的であることを認識することです。

そして、己の存在を「空」にして、身が地に寄り添うように低くする謙虚さが求められます。

それにより、天地と一体化しやすくなります。これが立体化の「起点」になります。

そして、己の欲に対し「線」引きを行い、自然界から医療活動を行う「御免(面)」を蒙ります。

そうして、患者さんに触れることで、お体に内部浸透しやすくなります。

天地との一体化、患者さんのお体への内部浸透により、

患者さん、術者、そして自然界と三位一体が成立します。

この三位一体が三次元化であり、思考・作法の「立体化」の第一段階になります。

三位一体の立体化の後、術者を介し、自然界と患者さんの間に、

「自然界のエネルギー」が流れる道として「龍道」が生じます。この「龍道」が「無理を有利にする道」です。

それにより、患者さんの不具合が解消する転機になり、

患者さんの「沈み込んだ」状態を「立ち上げる」ことになります。

これが、思考・作法の「立体化」の第2段階です。

こういった理順から分かるように、思考・作法の立体化に至るまで、己を「点~線~面~立」、

つまり0次元~3次元で要求される作法を満たすことが大切です。

この次元の操りは、「無~有」の操りになります。

ところで、老荘思想や淮南子には、

宇宙観を絡めながらこの「無~有」の展開に関する記述があります。

次項にて、その幾つかをご紹介いたします。

【老荘思想・淮南子からみた「無~有」】

『反者道之動。弱者道之用。 天下萬物生於有、有生於無』(『老子』 第四十一章)
⇒前に進むだけではなく、立ち返るのが「道」のである。

柔弱は道の作用である。天下の万物は「有」から生じ、「有」は「無」から生ずる。

『老子』には、「反」「帰」「復」という言葉が何度も出てきます。

このことから、道には、「返る」という運動性が内包されていることが分かります。

そして、柔弱が道の作用であることは、妙見問答での、うねりを説明する箇所の「立体的な柔軟さ」に通じます。

そして、*万物は形は無いが実在するものより生まれ出て、*

*実在するものは道に由来することを言っています。*

*これを簡単に図式化すると、*

万物⇔有⇔無

となり、この流れが「道」を示しています。

荘子は、次のように言っています。

『有始也者、有未始有始也者、有未始有夫未始有始也者。

有有也者、有無也者、有未始有無也者、有未始有夫未始有無也者。

俄而有無矣、而未知有無之果孰有孰無也。

今我則已有謂矣、而未知吾所謂之其果有謂乎、其果無謂乎?』(『荘子』斉物論 第二)
⇒「始まり」というものが「ある」。また、「未だ始まらない」ものが「ある」。

その「未だ始まらないものとしてある」ことが、「未だ始まらないもの」として「ある」ことだ。

「有」というものが「ある」。また「無」というものが「ある」。

「無がある」とは、「無があることが未だ始まらないもの」として「ある」ことだ。

その『無があることが未だ始まっていないものとしてある』ことが、

「未だ始まっていないもの」として「ある」。

突然にして、「有」とも「無」ともなるが、

その「有」と「無」とは、果たしてどちらが「有(ある)」で、

どちらが「無(ない)」か、いまだに知ったことではない。

今、私(我)は結局、すでに「謂う」に「あった」が、

私(吾)が「謂ったところ」は、果たしてそれは「謂ったこと」に「ある」のか、

それとも、それは「謂ったこと」に「ない」のか、未だにわからない。

荘子は、「有」と「無」が相互に行き来することを説明しています。

『荘子』の場合、「始」や「未」という概念を入れることで、

「有」~「無」に立ち返るまでにグラデーションがあり、

相対的な「無」として表現しています。

これを前提にして、『淮南子』には、

『有始者、有未始有有始者、有未始有夫未始有有始者。

有有者、有無者、有未始有有無者、有未始有夫未始有有無者。

~略』(『淮南子』俶真訓)
⇒「有の始まり」というものがあり、この「始まり」がまだ「始まり」でないものがある(以下「無の始」)。

さらにその「始」がまだない「始」の前にも「始」がある(以下「無の無の始」)。

「有」というものがある。「有無」というものがある。

この「無」がまだ「無」でないものがある(以下「無の無」)。

さらにその「無」がまだない「無」の前にも「無」がある(以下「無の無の無」)。

「始」とは、未だふつふつとしていながら吹き出さず、

芽吹いて萌えいでる兆しがありながら形にならず、

もやもやごそごそとそて、まさに生まれ出でようとしながらも、

まだ「もの」と呼べるものでもないことをいう。

「無の始」とは、天から氣が降り始め、地から氣が昇り始めたころ、

陰陽の氣が交じり合い、ともに「徳の和(調和)」を抱いて宇宙の間を悠々と漂い、

わらわらと群がり、集まり、何かを象りそうでありながら、その兆しが見えないことをいう。

「無の無の始」とは、天は調和を保ちながら下らず、

地は氣をはらみながらも昇らず、何もない空間で、全てが静まり返り、

存在のおぼろげな兆しもなく、氣は空間を走り抜けるばかりで、宇宙は深い暗黒であった。

「有」とは、万物が入り乱れ、根から枝葉まで生い茂り、

まばゆいほどの花々が咲き誇り、虫たちは生き生きと飛び回り、

息を弾ませながら歩くことなど、数量を切り取ったり、手にとって確かめることのできることをいう。

「無」とは、目を凝らしても何も見えず、耳を澄ましても何も聴こえず、

掴み取ろうとしても得ることがなく、考えてみても極まることがなく、

もやもやとしていながら深く広く行き渡っていて、

それを推し量ることもできないが、その輝きをもって通じている。

「無の無」とは、天と地を包み、万物を育て、深く混沌とした闇の中にあり、

果てしなく深く、広大なため、何者も外に出られず、

毛を割いたりや刃先を割るようでもあって、その内に入ることもできない。

小さな空間であるにもかかわらず、「有」と「無」の根源を生じさせる。

「無の無の無」とは、天地に未だ形がなく、陰陽の氣も生まれず、

春夏秋冬の季節の巡りもなく、万物も生まれておらず、静かにたたずんで、

ひっそりとした清らかさがあり、その形は見えない、

「有無」の光の中にいるかのようになり、

その光が退いて呆然としてときにこんな言葉を漏らした人がいる。

私は無には達したが、無の無には至らなかった。

無の無に至りさえすれば、至妙すら要らないというのに。

『樸至大者無形狀、道至妙者無度量。

故天之圓也不得規、地之方也不得矩、往古來今謂之宙、四方上下謂之宇、道在其間、而莫知其所。

故其見不遠者、不可與語大。其智不閎者、不可與論至』(『淮南子』齊俗訓 )
→極めて巨大な原木に形はなく、極めて妙たる道を測ることができない。

故に天をコンパスで測ることも、大地を差し金で測ることもできない。

過去と未来を宙といい、前後左右(東西南北)の四方と上下を宇という。

道はその間にありながら、どこにあるのか知る者もいない。

故に遠くを見ない者に道の大なるを語ることはできず、知恵の及ばぬ者に至極の境地を語ることはできない。

『淮南子』の齊俗訓にある「往古來今謂之宙、四方上下謂之宇」、

ここで「宇宙」は時空間の広がりであるという定義が端的になされています。

この「宇宙」という単語の初出は『荘子』の斉物論篇で、

その言葉の説明も最初にしているのは『荘子』の庚桑楚篇で、

「無」と関連させながら、次のように述べられています。

『以有形者象無形者而定矣。出無本、入無竅。

有實而無乎處、有長而無乎本剽、有所出而無竅者有實。

有實而無乎處者、宇也。有長而無本剽者、宙也。

有乎生、有乎死、有乎出、有乎入、入出而無見其形、是謂天門』(『荘子』庚桑楚 第二十三)
⇒形あるものが形なき世界に象られている時に心が定まる。

出現すれど、その源はなく、「無」に帰すれども入るべき穴もない。

無限に広がりながら、どこにあるかもわからず、時の長短があれども始まりも終わりもない。

無限に広がりながら、どこにあるかもわからないものを「宇」といい、

時の長短があれども始まりも終わりもないものを「宙」という。

あるいは生、あるいは死、あるいは出、あるいは入。

出入りしながらもその形がみえないもの、これを天門という。

宇宙空間に繰り広げられる、有無、生死、出入の境界で、目には見えない無形の天門が、

私たちにとっての妙見門に相当しましょう。

現実世界にて「無~有」を操る理が「法」であり、その過程を示す“~”が「道」です。

このことから、「法道」は「理有の道」であり、「龍道」と言われる所以なのでしょう。

因みに、「無」の字源は、「舞」にあります。

これは、人が舞い始める前の直前の姿を表しているのだそうです。

下の点が4つは人の足を表していて、四肢が静かな様子を表しています。

このことから、「無」には、何らかの動作・変化の予兆であることが分かります。

また、無~有~無~有との連続性の中に、「舞」の要素が含まれていることが伺えます。

このことは、妙見活法を行う上で、非常に重要な要素です。

【「無」と「有」を操る理】

では、「無」と「有」の間を往来するものは、何でしょう。

それは、自然界の「作用」であり、また「エネルギー」です。

私が専門とするところの東洋医学では、「作用」や「エネルギー」を、

「気」という言葉を設定して、「気一元」として説明しております。

「気一元」とは、人間の体をはじめ、自然界に存在する全ての「固体~液体~気体」が、

最小単位に還元すれば、気で出来ているという思想です。

気が凝縮すれば「有形」となり、気が放散すれば「無形」になります。

「気」の離合集散の作用のもと、人体を構成する、

血、津、液、精、五臓六腑、五体、五官などは、

部位により、働きにより、形状により、存在形態を変えます。

「気」の凝縮と放散による、形における「無~有」の往来、

ここでも「法道」の理が貫かれていることが分かります。

妙見活法では、「妙見思想」を自然認識として、学理の根本として重視するように、

東洋医学においても「気一元」が学理の根本になります。

鍼灸・漢方・導引・気功・太極拳などの「気」の技法は、

根本に「気一元」が抜け落ちれば、出汁が入っていない味気の無い味噌汁のようなものです。

この「気一元」を根本思想におざなりにして、

上っ面な薄っぺらな現象だけを追い求めて、「気」の技法を取り扱うならば、

司家が常日頃ご指摘されるように、「気」の世界は、かなり怪しい世界に陥りやすくなります。

また、文化大革命の影響の下、西洋文明の影響を受けた「唯物論」的認識に偏って編纂された現代中国医学は、

「気一元」の概念が抜け落ちており、東洋医学の真価が発揮し難い状況にあります。

そのことを憂いた老中医たちが、

門弟たちに現代中医学から抜け落ちてしまった理論を整理しながら、

教育し直しているそうです。

東洋医学で、変化させる対象とするのは、あくまでも*「気」*であり、

西洋医学のように、臓器や神経や血管や、血液中の成分の各種の異常といった*「形」*を、

初めから相手にしません。

東洋医学的な各種の方法で、*「気」*に正しく働きかけた結果、

上記のような*「形」*に劇的な変化が起こることは実際にありますが、

最初から*「形」*を変化させる目的ではないことに注意が必要です。

つまり、*「気」*が正しく動き、結果的に症状も改善したが、

*「形」*には何ら変化が起こっていない、というケースもあるのです。

東洋医学は、人体と大自然との調和も含めた有機的な連関性と調和の具合、

つまり*「人体内外の全体的なバランス」*を最優先し、そこに最注目します。

このことは、「気」を「作用」に置き換えて考えると、

妙見活法においても同様のことが言えます。

治療において対象とするのは、表出した目前の症状よりも、

体内に生じた「作用」の不具合です。

妙見活法の各活は、ある特定の疾患に限定して存在しているのではなく、

患者さんの生体の状況を察知したうえで、自然界の作用を正しく及ぼす事に意識の比重が置かれています。

私自身、施術の成果が思わしくない場合、患者さんの状況を察知することをさて置き、

ついつい目前の症状の行方の方に意識が奪われがちになる場合があります。

これでは、「私」を空にして、「治しの道作り」に専念できていません。

ここで、改めて「無」と「有」の話に戻します。

私を無と有の間の「~」(空)にした作法によって妙見活法を施すか否かが、

「法道」の凝縮と放散、闇と光の中庸となる「解放」作用の質の是非となって、

それが、症状の有無という転結に関わります。

この滅私の作法による闇の「解放」が、

「無と有の質的転換」「無理の自在の操り」に大切な作用であると思われます。

【「表~裏」「有~無」の間隙を操る】

東洋医学では、表と裏の境界として、半表半裏という領域が人体に設定されています。

これは、「妙見十王之活」で公開された円筒の如く、

東洋医学では、人体を竹筒に模して、

竹の表面を「表」、竹筒の空洞を「裏」として、その間を隔てる縁の部分を「半表半裏」としています。

「半表半裏」は、皮膚(表)と筋肉から下層領域(裏)の間に「膜」です。

この「膜」は、まさに虚実皮膜です。

「半表半裏」は、人体の各所に配置され、

たとえば咽頭は表~裏の境目、横隔膜は胸郭~腹部の境目、筋膜は皮膚~筋肉の境目など、

いずれも城壁のような役割があります。

また、「名有って形無し」と言われる三焦は、

外は皮毛に内は臓腑に連なり、臓腑器官を包み込み間隙を出入りし、全身にくまなく分布した膜状の組織で、

「無形」の気と「有形」の津液(水)の通り道となります。

半表半裏・三焦に、邪気(老廃物)が溜まりやすく、それによる病気が多々みられます。

これらの部位に邪気を察知し確認できたなら、呼吸・汗・小便・大便として排出させる必要があります。

これは、まさしく「表~裏」「有~無」の間隙の操りと言えます。

勿論、半表半裏・三焦に邪気が溜まっていないのにかかわらず、

平面的な自我でもって、この邪気を祓おうとしても、

たいして効果が出ないことは言うまでもありません。

【「水気」の邪気を操る青龍】

前項で、「気」について触れたついでに、

東洋医学で“龍”の入った処方を2つ、ご紹介いたします。

『傷寒論』という風寒邪が体に内部浸透した際の症状の行方を記載した専門書に、

次のように解説されています。

太陽中風,脈浮緊,発熱悪寒,身疼痛,不汗出而煩躁者,大青龍湯主之。

超訳⇒風邪が外から侵入して、汗が出ないで煩燥するように苦しかったら、

これは外が冷えて内熱が籠った状態に、大青龍湯がいいですよ、という内容です。

傷寒表不解,心下有水気,乾嘔,発熱而咳,或渇,或利,或噎,或小便不利,少腹満,或喘者,小青龍湯
<http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%AE%C0%C4%CE%B5%C5%F2>主之。

超訳⇒寒邪が表で解けないと、そのまま内部浸透して、ミゾオチである心下の場所で、

水の邪気が気の流れを妨げる場合があります。

それが胸郭内の肺に影響が及ぶと、喘息発作が起きます、といった内容です。

そこで、水気の詰まりを捌くのに、小青龍湯が用いられます。

一方は内熱、もう一方は水邪を捌くのに、「青龍」の名称が付いた処方がなされているのは、

内臓調法で水の操り、「北辰法道之活」にて「龍道」の操りをご指導いただいた現在、

大変意味じい条文だと感じ、紹介させていただいた次第です。

【北辰法道之活秘伝書の解釈】

最後に、北辰法道之活秘伝書の解釈をさせていただきます。

「法道之活は、妙見活法の初伝えとなる始まりの活である。

それは玄武の一歩であり、妙見様が乗っていらっしゃる関所、つまり玄関となる。

妙見門の中は外から見ると未知の世界である。

妙見門の内に入れば、外と内を繋ぐ道となる。

門の中に入れぬ者は力に頼ってしまう。かたや入れる者は血を空にできる。

門が閉ざせば中を知ることができない。その者は、まさに未知に入れないから道外れである。

力みを捨てれば相対する相手と挑みが無く、また挑みを捨てれば相手に対して逆らうことがない。

こういった反発無き道は、人との仲を取りもつ道にもなります。

謙虚に小さく入るは道の法である。知の道、智の道、血の道を作り、仲の道は法の道である。

それには、縦を立てる、これは、よそ様が立ちやすい、あるいは歩きやすいように配慮する道理の道である。

この道理を通さない道は、人として薄っぺらな平道を歩むようなものである。

曲がり回って患者さんの地に沿えば、それこそ地に良し地に良し治し良しとなる。地良は血良に治良と進み、そのとき体内の水神が流れてうねりを起こし、龍神が舞えば鳴動する」

【終わりに】

今回の「北辰法道之活」学理講座において、

東洋医学の概念を交えながら、

立体化の作法や「無理の自在の操り」について考察いたしました。

「無理の自在の操り」をするには、

・高次元とは、現実世界の3次元そのものである

・三次元より下の次元も上の次元も実在しない

・3次元を3次元のまま扱う、

・固定観念や目前の現象に囚われたり、実在しない多次元に対し過度な憧憬を抱くことで、

現実を直視できずに平面的思考に陥りやすくなる

・学理で得た知識を底面にしながら、実践・経験を積み重ねることが、立体的思考・作法に繋がる

・「無理の自在の操り」は、立体的な作法が前提である

といったことを前提にすることが、必要不可欠です。

学理講座中にあった「一を以て十を悟れ」、

これは「一」という限られた情報・状況の中であっても、

立体的な思考・作法によって、対象や現状を十全に察知しなさいという意味として捉えられます。

司家からご指導いただいている妙見活法を「屠竜の技

に陥らせないためにも、

自分で考え、行動、責任を取る、そして滅私の作法に則り、妙見医道を学ばせていただきます。

今後とも、ご指導のほど、宜しくお願い致します。

大阪天満 川上哲寛妙真拝

この記事の著者

正伝妙見活法協会
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一千年の歴史を有する正統なる古伝活法『正伝妙見活法』を第24代継承者である千葉吉胤妙星師が直接教伝いたします。
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