第57回妙見学理講座 合気二天二応療法 理論編 考察レポート 優秀レポート 坂下武幸先生 | 活法・合気の整体セミナー・整体スクールなら「正伝妙見活法協会」

2021.3.15

第57回妙見学理講座 合気二天二応療法 理論編 考察レポート 優秀レポート 坂下武幸先生

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千葉司家、由利司家秘書、前野会長、会員のみなさんお世話になっています。

東京都港区坂下です。

二天二応法学理講座考察レポートになります。

【シンプル化する術理、法術】

妙見活法、法術の特徴はそのシンプルさにあります。

世の中の多くのものが複雑化し、抽象的な理論を作っていきます。

理論はどこまでも論なので、必然的に実践とは乖離したものになります。

理論と実践が別々に存在せず、自然作用や自然現象を観察し、誰がみてもそうだというリアルな道理をそのまま術理にしているのが妙見活法です。

今世の中に出回っているもののほとんどは、仮説を立てそれを実証するという科学の手順に則っています。

そういった手順をとらないのが哲学や手技療法の世界です。

哲学の世界は個人の思念体系、特定の思想の潮流の中で思考されたものがほとんどで、科学とは違い無駄な贅肉が多いものになっています。

手技療法の世界は、

「構造的に整っていれば痛みなどの問題は出ない」

という前提の元に色んな方法が流通していますが、まずこの前提が仮説だということを忘れている時点で「砂上の楼閣」を築き上げているのが現状です。

「砂上の楼閣」であるがゆえにエビデンスや医学からのお墨付きといった権力を必要とします。

私の場合、元々ダンサーや格闘家の身体をみることが多かったので、こういった方々の身体を左右均等にしてしまうと逆にパフォーマンスが低下するということを経験していましたが、

30年以上臨床経験のある治療師の先生方でも大抵はこの部分を前提にしていることが不思議でした。

協会の会員になり、まず否応無しに転換が起こるのがこういった領域です。

今まで素朴に依拠してきたものが「信念体系」に過ぎなかったということに直面することになります。

今まで当たり前のように前提としていた考えが「仮説」に過ぎなかったことを思い出し、更にはそれらが全く根拠なく、自然の道理に反したものですらあったということを思い知ります。

妙見活法の術理ほど「無駄がなくシンプルでリアル」なものはないので、妙見活法の術理自体が他の手技療法の「リアルさ」、つまり道理に適っているかどうかの指標として機能します。

理学療法士であれば今まで積み重ねてきた勉強や経験を否定し、棄て去るべきかどうか迫られることになります。

長い時間積み上げてきたものですから、自分の一部といっていいものになっている場合もあるでしょう。

多くの人は、ここで自分の積み重ねてきたものを尊いものと判断して、根拠のない仮説の上に更に複雑化された体系を積み上げていくことになります。

最初にボタンのかけ間違えをしたため、どこまでいっても狂いは修正されません。

修正するには一度ボタンを全て外してしまう、つまり自分が築いてきたものを一度全てリセットする必要があります。

私が今まで色んな手技、療法を勧めてきたセラピストや治療師でも、教伝会や妙見会に誘っても参加しない場合がかなり多いです。

恐らく、千葉先生の動画や告知をみて、今までの自分の経験を否定しなければならない恐怖、予感を感じ取るのでしょうか(笑)

いずれにせよリセットするタイミングではないということになります。

私の場合は、初めて教伝会に参加するまでは、今まで学び、修得してきたものに限界を感じていました。

大体、どの治療師も経験の蓄積が必要だということを言っていましたが、それらの治療法の前提がそもそも違うんじゃないか、いたずらに複雑化し過ぎているんじゃないかという思いが強かったです。

むしろ、今までの経験を全てひっくり返すようなものを欲していたので、最初の教伝会のタイミングはドンピシャだったと思います。

活法、法術の相伝が進むにつれて、施術が終わった時の会話で今まで以上に、

「これ、病院ではやりようがなかったですよね」

「どこに行っても良くならなかったんですよ」

という言葉を頂くようになりました。

つくづく、解剖学や病理学は身体の不具合を解消することとは関係がなく、医学は身体の治癒を促すことから随分と遠ざかったと思います。

患者に治癒を促すという点において、現代の医学はかなり深刻なボタンのかけ間違えがあり、医者の多くは砂上の楼閣にて踏ん反り返っている現状です。

【単純か、複雑か】

道理に適っているものであれば複雑でもいいかもしれませんが、自然の道理に適っているものというのは自ずと単純になってしまうようです。

妙見活法には空虚な理論が存在せず、その術理は自然の働きをそのまま法則化したものばかりです。

誰の目にも明らかなこと(しかしほとんどの人が見逃していること)を術理化するため、科学のように仮説を立てて予測する必要もないものになっています。

妙見の教えに触れ続けると、以前に比べて沢山の情報、複雑な情報から単純な構造を取り出す能力が付いてきたと感じます。

世間が騒いでいるもの、話題になっているものについて本質だけを取り出して判断することができるようになってきます。

最近だと何かブームになっているものをみて、若い子が中心だから一過性のものだなとか、主婦層がメインだから定着するなとか、今メディアがこういうことをよく流すようになったから、

この方向に誘導しているなとか、自然に判断している自分に気付くことが増えました。

世間の情報の大半もいたずらに複雑で、道理に適っていないものが多いため、妙見の術理が基準になると自然にその不自然さが浮き出てくるようです。

【妙見の眼】

このように、物事を単純化してみることができ、身体の不具合も単純化のプロセスで解消されてしまう。妙見活法の単純化のメカニズムはどうなっているのか。

まず、妙見活法の術理が成立するプロセスは、観察者が全く先入観なしに自然の働きを観察するというところが端緒だと思います。

この先入観なしの観察、強度の高い純粋さとでもいえる観察が術理成立のスタートです。

これは非常に難しいことだと思います。

現代は色んなことが当たり前になっているので、昔の方が自然をありのままに観察することが可能だったかもしれませんが、昔は昔でその時代の先入観があったと思います。

例えば、現代では遠近法は普通になっていますが、そういった概念がなければ遠くの小さいものが近づいてくると大きく見えるということは凄い驚きだったかもしれません。

ものが落ちるという現象は、近代物理学では重力や引力という概念で説明されますが、ニュートンが出現する前はどう理解されていたんでしょうか。

このような、現代では当たり前になっている概念を媒介せずに物事を観察しようとするのは非常に難しいことで、これは科学や迷信やその時代の先入観といった概念によって、対象との距離が「遠く」なっているということができるかもしれません。

妙見の先人たちはこういった「遠さ」を解消し、ハンバーガーの中身を食べやすいようにするように、対象と観察者の距離がほぼゼロのような状態で自然の働きをそのまま観取していたということになります。

それこそフィクションじゃないか、そんなことは可能なのか?

観察者と対象が限りなく一体になる位距離を縮めると、自然の持つ振動と共鳴する、「応力」をダイレクトに受けるのだと思います。

これは、妙見活法では色んな所作によって相手とくっついてしまう状態がそうだと思います。

相手と完全に共鳴する、ダイレクトにつながる、主客未分になるという状態、IIと=をIと–にするという単純化、シンプル化が妙見のシステムには含まれていて、コアを形成しています。

「謙虚であること」も、常に自分の予測予想を持たず、対象と近づき、横並びになったり「直」で繋がれば、そこには曇りのない「妙見の眼」が現れるというシステムといえるでしょうか。

フリーメイソンの、万物を見渡す眼は、観察者と対象が直で交わっているところに現れていると見ることもできそうです。

「妙見の眼」が現れさえすれば、それは観察者と対象が消えた、純粋な自然作用が生じる場だということになります。

妙見の道の途上にいる参加者は、活と殺、善と悪といった背反を一にする術を身に付けつつ、常に「妙見の眼」を目指す螺旋の途上にいます。

以上で考察になります。お読み頂き有難うございました。

東京都港区 坂下武幸

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